2003年12月05日

野村万之丞氏基調講演

野村万之丞氏基調講演
「伝統は革新の連続――アナログとデジタルの文化的考察」

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私は4日前に平壌に居た

今来ているのは中山服。これはアジアの制服。日本人はアジア人なのにネクタイに背広を着ている。

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文化ということについて語る。

文化住宅、文化包丁という言い方があるが、この「文化」は最先端という意味。

文化とは形を変えて心を伝えること。守ることはダメ。
守ると必ず形骸化してピーマンのようになってしまう。

最近は文化が「デザイン」という言葉に変わって、ブランディングに使われている。
形を変えると同じものなのに付加価値が付いてくる。

文化は見えないから変化していく。
アタマが凝り固まっているのはアナログ人間だろうがデジタル人間だろうが同じ。

カツカレースパゲッティのようにミックスカルチャーの日本。
日本は昔からUSAだ。すなわちUnited States of Asia(アジア合衆国)の一部だった。その時代に大陸や半島との関わりの中で出雲大社、奈良の大仏ができた。
奈良にはやたらとペルシャ人が居たそうだ。ナラ、ワカサは朝鮮語が語源だ。

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でも日本人はなんとなくミックスカルチャーを信じなくなっている。

日本はその後「USA」から独立して平安京をつくって、ミックスカルチャーを止めてしまった。
巨大なものからミニチュアに変わって、ミックスカルチャーからファジー(いいかげん=良い加減)のカルチャーに変わっていった。

欧米は数と時間に制約される。
明治維新以降、これが入って来て「いいかげん」文化が壊れてきている。

安心と危険の割合は7対3。不安定の中の安定を求めることが「いいかげん」だった。

そして、時代が江戸に移っていったところで、簡素美に。
たった一輪の花をみて「スゴイ花」――侘び/寂びと言うようになった。

今は忘れられているが、「風流」とは満艦飾に意味なく飾り立てることだった。
明治以降の日本はこれを追いかける時代に入った。
ないことは汚い。小さいことは貧しい――という受け止めかただ。
それを追いかけるようになって、どんどん(分裂状況に)追い詰められることになった。

どうするか。
日本にしかないものを求めること。
日本は“余国”をもって代え難いものをもっていればいい。

それは「残す」という文化だ。これは日本だけだ。シルクロードの産物が残っているのは日本だけ。

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今、仮面にこだわっている。
神と人間を繋ぐのが仮面。インターフェースだ。
役者もインターフェース。神様と交信するときには皆の代理なのだ。

見えないものと見えないものを繋ぐということでは、デジタルも仮面も同じだと思う。

テクノロジーだけ進んでいって、なんでもデジタル加工して送り出すということでは負ける。
ハイテクノロジーは真実を見抜く力を持っているので、本物にとっては「待ってました」という時代が来た感じがする。

見る、見られる、見ている――主観、客観、大客観――の関係。

仮面は第1のコミュニケーションツール。
2つ目は音。通常ではない音を出すことを通じて神につながろうとしている。
3番目は身体表現。
4番目は言葉。
5番目が文字。
6番目がデジタル。PCとケイタイという仮面をかぶって。

自分が分かりすぎてしまう時代。
匿名から「匿顔」が求められるようになった。

私は今、仮面を通して時代を見ている。

(文責・築地達郎)

投稿者 隅岡 敦史(SCCJ) : 15:24 | コメント (0) | トラックバック